top of page

​町内の伝統行事

東区大祭り(2015年)
29:50
北分大祭り(2016年)
28:59
宮田神社神幸祭(2015年)
29:52
中里大祭り(2014年)
21:17
太井のえびす祭り(2018年)
03:04
保々見えびす祭り(2015年)
24:02

後鳥羽院遷幸800年

Alice's Oki Islands UNESCO Global Geopark Report

英語でジオパークガイド

英語でジオパークガイド

海士の懐かしい写真

海士町の懐かしい写真 #1
海士町の懐かしい写真 #2
海士町の懐かしい写真 #3
海士町の懐かしい写真 #4
海士町の懐かしい写真 #5
海士町の懐かしい写真 #6
海士町の懐かしい写真 #7
海士町の懐かしい写真 #8

海士の伝承歌

隠岐 海士町の伝承歌 01「カラス カラス 勘三郎」
00:29

隠岐 海士町の伝承歌 01「カラス カラス 勘三郎」

からす からす 勘三郎 親の恩を 忘れたか  からす からす 勘三郎 親の恩を 忘れるな 歌い手/保々見  徳山千代子・明治37年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和50年(1975)5月10日 聞き手/野上正紘(隠岐島前高校教諭)酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】  秋の夕焼け空の中。カラスがねぐらをさして急ぐ姿を、子どもたちはこう表現して歌った。各地に似たような歌は多い。わたしも各地で似た歌を聴いている。  大田市三瓶町志学の水滝ミツコさんさん(大正15年生)から聴いた歌。昭和63年1月収録。 からす からす 早(はよ)いなにゃ おまえの宿が焼ける  杓(しやく)がなけなら貸しちゃろか 水がなけなりゃ汲んじゃろか  浜田市三隅町東平原の九十九クウさん(明治20年生)から聴いた歌。昭和35年4月収録。 からす からす 紺がらす われが家や みな焼けた 急いでいんで水かけよ 担桶がなけにゃ貸そに  杓がなけにゃ貸そに 急いでいんで水かけよ また鳥取県八頭郡若桜町大野の兵頭ゆきえさん(大正5年生)さんの歌。昭和56月8日収録。 カラス カラス 勘三郎 あっちの山は火事だ 生まれたとこを忘れんな  いずれも似たような内容である。  ところで、元禄5年(1692)生まれの鳥取藩士・野間義学が、鳥取城下でわらべ歌を採録した『古今童謡』には50曲が収められ、そこには次の類歌があった。 カラス カラス かめんじよ おばか家か焼けるやら 空のはらが赤いぞ  早う行って水かけ 水かけ ちなみにこれまで世界一古いわらべ歌集はロンドンの大英博物館に遺されている『親指トムの唄』上下2巻で39曲収録であるがといわれていたが、野間義学の『古今童謡』は、その歴史を塗り替える最古のわらべ歌集なのである。海士町保々見の徳山さんの歌も、多少の違いがあるとは言え、それにつながっている歌と言えるのかも知れない。
隠岐 海士町の伝承歌 02「トコ唐人の寝言には」(早口言葉)
00:32

隠岐 海士町の伝承歌 02「トコ唐人の寝言には」(早口言葉)

トコ 唐(とう)人(じん)の寝言には  おーさー さーさー まいろ おーさ てれすこ ねいそーなー  ねーろに はーねーろー てーるーすー いっぷくやーのー やーたら ぼーうたら  いってこしんぱん こんぷんたん いたらいそーかす ずーべらぼー すっとこねいたか  つーぱーぱー 歌い手/保々見 徳山千代子・明治37年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和50年(1975)5月10日 聞き手/野上正紘(隠岐島前高校教諭)酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 「早口言葉」が伝承歌かといえば、メロディーというものがあまり認められないので、それは違うという方もおいでかと思う。それはその通りかも知れないけれど、海士町の伝承として捨てがたいので紹介しておきたい。なお、聞き直したのを掲載したので、掲載紙『島前の伝承』第2号(昭和51年3月・隠岐島前高校郷土部発行)では、聞き方が不充分で多少違っている。  早口言葉といえば、なんといってもこれらの言葉を早口でしゃべるところに面白さがあり、子どもたちの世界では、だれが詰まることなく早く言えるかを競ったものだ。  ところで、アナウンサーになるための訓練にも使われ、よく知られている「言葉の体操」としての早口言葉。「隣の客はよく柿食う客だ」とか「坊主が上手に屏風に坊主の絵を描いた」「赤巻紙黄巻紙青巻紙」などがあるが、地方には地方で徳山さんが教えてくださったような、早口言葉もあったのである。 これに似ているものとして隠岐島前郷土部が島後の都万村(現・隠岐の島町)に郷土部の調査で遠征した折、わたしが津戸の小野イヨさん(大正5年生)から、次のものを聴いている。 唐人の寝言には おおしょ てれすこ あんねーろ ぎんかに きんかに きんちょう さいて  てーれーす いちずくやーの おととこ  しんたん かんぽんたん いらないしょうぼわ  ずんべら ぽんとこ ねーたーか つうぱあぱ  出だしがほぼ同様の「唐人の寝言には」で始められており、その後は言葉そのものが違っているとは言え、早口でしゃべる雰囲気はとてもよく似ていた。こうしてみれば、隠岐島の島前、島後両地域でも、以前にはこのような早口言葉が存在しており、子どもたちが競争で早口で言い合って楽しんでいたのではなかろうかと想像されるのである。  さて、静岡大学名誉教授だった故・山本節(たかし)博士(平成23年72歳で逝去)から、以前「唐人の寝言」の伝承例を教えてほしいと連絡があり、わたしの知っているこの二つの事例を報告し。その後、氏とは親しく交流を続けていた思い出は懐かしい。  氏の研究によれば、江戸時代あたりから「唐人の寝言」なる言葉はカルタや草双紙の題目などでも使われ出し、主として中国地方でこの早口言葉の事例が紹介されていた。また明治維新、土佐出身の勤皇の志士・坂本龍馬が下関の伊藤助太夫の妻りうにこの言葉を教えうたわせた(山本節「唐人の寝言」考(二)・『アジア遊学』No.111 190ページ)とあり、びっくりしたものである。 たかがダジャレのような早口言葉ではあっても、これは人びとの気持ちを楽しませたり高揚させるする力を持っており、そうであるならば、これらの早口言葉もまた、民話やわらべ歌、民謡などと同じように「無形民俗文化財」と称しても差し支えないように、わたしには思われるのである。
隠岐 海士町の伝承歌 03「子どもら子どもら」(てまり歌)
00:51

隠岐 海士町の伝承歌 03「子どもら子どもら」(てまり歌)

子どもら 子どもら 花折り 行かあや 花は花だがどこ花だ 地蔵の前の桜花 一枝折ってもばんとうじ 二枝折ってもばんとうじ 三枝折ったら日が暮れた  兄の紺(こう)屋(や)に宿とらか 弟の紺屋に宿とらか 兄の紺屋に宿とって 畳は短し 夜は長し カラスがカアカア 夜が明けた 歌い手/保々見 川西ツギ・明治34年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和50年(1975)5月10日 聞き手/野上正紘(隠岐島前高校教諭)酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 手まり歌としてうかがった。これの仲間としてわたしはいくつか聴いている。浜田市三隅町古市場の東嶧勇吉さん(明治25年生)から昭和35年10月7日にうかがった歌。  子ども衆 子ども衆  花を摘みに行きゃらんか 花はどこ花 地蔵が峠(たお)の桜花 一枝摘んでもパッと散る 二枝摘んでもパッと散る  三枝目に日が暮れて 上の小松い火をつけて 下の小松い火をつけて 中の小松い火をつけて なんぼつけても 明(あ)からんぞ ところで、江戸時代前縦、元禄5年(1692)生まれの鳥取藩士だった野間義学が当時の子どもたちから50曲集めた『古今童謡』は、世界最古のわらべ歌集であるが、その中に次の歌があった。 おじやれ子ともたち 花折りにまいろ   花はどこ花 地蔵のまえの桜花 桜花 一枝折はパッとちる 二枝折れはパッと散る 三枝の坂から日か暮れて あんなの紺屋に宿かろか こんなの紺屋に宿かろか  むしろははしかし 夜はながし 暁起て空見れば ちんご(児)のやうな傾城が、黄金の盃手にすえて 黄金の木履を履きつめて、黄金のぼくとうつきつめて 一杯まいれ上ごどの、二杯まいれ上戸殿、三杯目の肴には 肴がのうてまいらぬか(おれらか町の肴には さるを焼いてしぼつて、とも) われらがちょうの肴には 姫瓜 小瓜 あこだ瓜   あこだにまいた香の物  改めて説明するまでもなく、今回紹介した海士町の川西さんや浜田市の東嶧さんの歌の仲間であることは、どなたも異論はないだろうと思う。 野間義学の時代は、俳句の松尾芭蕉、浮世草子の井原西鶴、劇作家・近松門左衛門らが活躍していたのと同じ時代に属している。そのような頃の系統を引いているわらべ歌が、ここ海士町にも遺されていたとは、わたしたちにとって伝承の不思議さを覚えるのではなかろうか。
隠岐 海士町の伝承歌 04「お駒がわが家を発つときに」(お駒節)
02:25

隠岐 海士町の伝承歌 04「お駒がわが家を発つときに」(お駒節)

お駒がわが家を発つときに 二人の子どもを ちょいと抱き上げて  これがこの世の暇乞い 辛抱せよとの ナア よしよし  親には子だと なあよしよし  お駒がわが家を発つときに 二人の親にと 両手をついて これがこの世の暇乞い 親には不幸だと ナア よしよし 橋の欄干に腰打ちかけて 月星眺めて 殿さんを待ちる 向こうに見えるは 与作さん お駒じゃないかと ナアよしよし 歌い手/保々見 井上ヨシ・明治35年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和50年(1975)5月10日 聞き手/野上正紘(隠岐島前高校教諭)酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 なんとも不思議な歌である。労作歌ではなく座敷歌に属していることは想像がつくのであるが、うかがってみると大正時代くらいまで、十(とお)日(か)戎(えびす)のおりにうたっていたとのことだった。  十日戎というのは、正月十日に行われる祭りであるが、本来は漁業者が中心になって行っていた。ただ、時代が下るに従って商人の祭りに変化してきた模様で、九日には厳粛な物忌みが行われたりしていたはずであるが、それの余興として宴席でこの歌がうたわれていたと想像できる。  歌の詞章を眺めると、もの悲しい物語になっているのであるが、現在では残念ながら細かい筋書きはもう分からくなってしまっている。  わたしたちが45年前に聴かせていただいたときは、井上ヨシさんや徳山千江子さんたちが、懐かしそうに元気いっぱいうたってくださっていた。  ある意味では無形民俗文化財であるこれらの言語伝承を、海士町役場などの公的機関がウェブサイトで保存しておき、インターネットで検索すれば、だれでも自由に聴けるようにはならないものだろうかと、この文章を書きながらわたしは考えている。  実は鳥取県立博物館ホームページでは、現在、ウェブサイト上で、民話とわらべ歌の二分野にわたり、東部、中部、西部の三地区別別に各地区30ずつ聴けるようになっており、わらべ歌については、平成三十年三月から「鳥取のわらべ歌」として『日本海新聞』に毎週水曜日の紙面でわたしの解説が掲載され、メロデイはこの鳥取県立博物館のウェブサイトで聴けるという協力体制による企画が行われていた。これは令和元年十一月まで九〇回にわたって連載された。そして紙面のイラストは、『広報海士』紙で麗筆を奮っている福本隆男君が担当してくれている。彼とのコンビはわたしが隠岐島前高校に勤めていたおり、彼が生徒であった時代からであるから、まもなく半世紀になろうとしている。縁は異なものといわねばなるまい。  さて、鳥取県ではこのような試みがなされているのであるが、わたしは本町でもこのような企画が実現できないものかと、秘かに考えている。隠岐島前高校郷土部がこれまで収録してきた多数の言語伝承を、本町の公的機関のウェブサイトに登載して、関心を持つ方がだれでも聴くことが出来るようにすれば、どれだけこの面の研究も進展し、海士町の町づくりにも活用されるのではなかろうかと思う。(このほどこのことは実現している。)
隠岐 海士町の伝承歌 05「一わと書いて」(てまり歌)
02:53

隠岐 海士町の伝承歌 05「一わと書いて」(てまり歌)

一わと書いて わしゃ石蹴らの 子ども衆こそ 石蹴るものよ  二わと書いて わしゃ庭掃かの おなご衆こそ 庭掃くものよ  三わと書いて わしゃ産さがらの かかさん衆こそ 産さがるもんじゃい  四わと書いて わしゃ皺よらの 年寄り衆こそ 皺よるもんじゃい  五わと書いて わしゃ碁は打たの 旦那さん方こそ 碁を打つもんじゃい  六わと書いて わしゃ艫(ろ)は押さの 船方衆こそ艫は押すもんじゃい)  七わと書いて わしゃ質入らの 貧乏すりゃこそ 質入るもんじゃい  八わと書いて わしゃ鉢割らの きょろきょろすりゃこそ 鉢めぐもんじゃい  九わと書いて わしゃ鍬持たの 鍬方衆こそ 鍬持つもんじゃい  十わと書いて わしゃ数珠持たの 坊さん方こそ 数珠持つもんじゃい 歌い手/宇受賀 村尾イシ・明治19年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和51年(1976)8月21日 聞き手/安富伸子 金子美和(以上・民話と文学の会) 大上朋美(郷土部) 動画制作/隠岐アイランズ・メディア 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 昭和51年(1976)8月に全国から50名余りの民話と文学の会会員が、海士町を中心にして民話などの口承文芸の調査を行ったときの記録から紹介する。隠岐島前高校郷土部の諸君たち(50音順で、池田百合香、大上朋美、小新恵子、濱谷深希)は、このとき案内役として海士町各地を、彼らの先達となって案内する役を引き受け、参加者の方々から大いに感謝されたものである。  さて、この歌はわらべ歌の中の手まり歌として収録した。ごらんいただけば分かるように、一から十までの数字を頭に置いた数え歌形式で進んでいる。「~は〇〇ではない」と否定し、続いて「~こそ△△するものじゃい」と肯定するスタイルで統一されているのである。うたわれている内容は、日常生活で見聞きするものを集めたと言えばよいようである。  この歌は子どもたちの世界で好まれた模様であり、同類は本土の各地でも多く存在しており、わたしもあちこちで録音してきた。  ここらで少し横道に入る。前号にも記しておいたが、まずイラスト執筆の福本隆男君のことから紹介しておこう。現在では押しも押されぬイラスト作家として、好評を得ているのは嬉しい。  彼は、わたしが海士中学校に赴任したとき、二年生だった。昭和48年(1973)わたしが隠岐島前高校に転勤しており、彼も入学しサッカー部に所属していた。そして郷土部の機関誌『島前の民話』の挿絵を描いてくれるようになった。機関誌を作り始めたおり、イラストがあればよいと思い「誰か絵のうまい者はいないか」と部員に相談したら「サッカー部の福本君が上手です」と答えが返ってきたのがきっっかけだった。朝、彼に原稿を渡しておくと、放課後には絵が鉛筆書きで出来上がっていた。  話は変わるが、機関誌も部員が鉛筆で仕上げ、謄写印刷で五〇〇部程度刷り、製本は松江の印刷所に依頼し、送り返してもらって完成した。郷土部では各地の希望者や研究者からの注文に発送作業を行って、活動も一段落というくり返しだった。予算はゼロながら自己資金を生み出しての部活動だった。  そのような活動が知られるようになり、NHKラジオの番組「学校放送の時間」で昭和52年(1977)10月「青年期の探求」として15分番組で、再放送を含めて3回放送された。こうして郷土部の活動が全国に紹介されたのであった。  高年の町民の中には覚えておいでの方々もおありと思う。わたしにとっても、こられのことは、忘れられない思い出の一コマなのである。
隠岐 海士町の伝承歌 06「一番初めに一宮」(てまり歌)
00:59

隠岐 海士町の伝承歌 06「一番初めに一宮」(てまり歌)

一番初めに 一(いちの)宮(みや) 二は 日光 東照宮 三また 讃岐の 金比羅さん 四はまた 信濃の善光寺 五つ出雲の大社(やしろ) 六つ 村々神々さん 七つ 成田の不動さん 八つ八幡(やわた)の八幡(はちまん)さん 九つ 高野の弘法さん 十で所の氏神さん  これほど信心したけれど 浪子の病(やまい)は治らせん   ゴウゴウ ゴウゴウ 行く汽車は 武夫と浪子の別れ汽車 二度と会えない汽車の窓  泣いて血を吐く 不如帰(ほととぎす) 歌い手/御波 前田トメ・大正3年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和51年(1976)6月12日 聞き手/濱谷深希 池田百合香 動画制作/隠岐アイランズ・メディア 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 この歌の背景は、徳冨蘆花の長編小説である「不如帰」から題材をとっている。 問題の小説は明治31年(1898)11月から翌年5月まで『国民新聞』に連載されたものである。その内容は海軍少尉川島武男と妻・浪子の愛情と悲劇を描いたもので、非常に人気が高く、各地で類歌はうたわれていた。  次に江津市桜江町川越のものを挙げておく。島田ツチエさん(大正9年生)からうかがった。これは手まり歌ではなくお手玉歌として、昭和35年(1960)8月1日に聞かせていただいたものである。  一番はじめが一宮 二また日光中禅寺 三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺  五つで出雲の大社(おおやしろ) 六つで村々天神様 七つ成田の不動様 八つ八幡(やわた)の八幡(はちまん)宮  九つ高野の弘法様 十で東京の日本橋 これほど心配かけたのに 浪子の病(やまい)は治りゃせぬ 武男が戦地に向かうとき 白い真白いハンカチを  うちふりながらも   ねえあなた  早く帰りてちょうだいね  ゴウゴウゴウと  鳴る汽車は  武男と波子の生き別れ 二度と会われぬ  汽車の窓  なして血を吐く不如帰  ほぼ同様の形ではあるが、二人の会話のついているこの種の歌も、けっこう広い地域でうたわれていたようである。「なして血を吐く不如帰」の「なして」は「泣いて」が伝承の過程で変化したもの。 ここで鳥取県の事例を二つ紹介しよう。米子市今在家の米村玉江さん(大正3年生)の歌。    一番はじめは一宮 二また日光東照宮 三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺  五つは出雲の大社 六つ村々鎮守様 七つは成田の不動様 八つ八幡の八幡宮  九つ高野の弘法さん 十で東京明治神宮 これほど心願かけたのに 波子の病は治らない  ゴウゴウゴウゴウ鳴る汽車は 武男と波子の生き別れ 二度と会われぬ汽車の窓  泣いて血をはく不如帰  最後に東部の八頭郡智頭町福原では大藤みつ子さん(大正4年生)からうかがったもの。  一番初めが一の宮 二は日光東照宮 三で讃岐の金比羅さん 四に信濃の善光寺  五つ出雲の大社(おおやしろ) 六つ村々鎮守さま 七つ名札の不動さま 八つ八幡(やわた)の八幡(はちまん)さん  九つ高野の弘法さん 十で東京の真言寺 これほど信心したけれど 浪子の病は治らない  ごうごうごうと鳴る汽車は 武男と浪子の生き別れ  二度と会えない汽車の窓 鳴いて血をはく不如帰 かつての女の子たちに歓迎されていた手まり歌だったのである。

海士の民話

隠岐 海士町の民話 01 「小僧の一斗飯」
02:25

隠岐 海士町の民話 01 「小僧の一斗飯」

<音声の書き起こし> ーよし、よし、今に和尚さんを、だ(私)がの、目に遭(あわ)ぇえてやっけんーてて、心の中では思っちゃおれど、 「はい、はい」てて、顔は神妙な顔しちょんました。  それから、和尚さんが出た間に、しんち(・・・)(便所)の踏み板を鋸(のこ)でギッギギッギ切ってええて、和尚さんが今に入ってぼろけっかな(落ちるかな)、ちゅうやぁにして知らん顔しちょんました。  け、和尚さん、しんち入ってけ、ズボッとぼろけて、 「小僧よ、助けてごせな」ってて言って、け、両方の手を出えただけん、 「よし来た」ちゅうでけ、小僧はまま(飯)一斗け、ドッドッドッド炊(た)きましただがや。そげして和尚がやってきて、 「のしゃ、だが(私が)しんちぼろけちょんに、どげで助けてごさんだ」。 「へえ、和尚さん、おまや、せ、両方の手でぇただねえか。だけん、だぁ(私は)、まま一升炊ぇただわな」 「こげなまた、けしからな、ま、しゃねぇだけん、そろ、ほんなら干(ほ)し飯にしとけ」。 「ハイハイ」。  け、小僧はけ、なんのこたねぇ、欲(ほ)し飯だ言うだけん、欲しいときにけ、すっぱい(全部)食ってしまって、ないようにしてしまったそうな。  け、今度、和尚があるとき、 「小僧よ、あの干し飯にしたやつをな、あれをえんからにすっだけん、出ぇてこいな」。 「へえー、和尚さん、おまえ欲し飯だ言うけん、すっぱい食ってしまった」。 「やれな、のしがやぁな」言っただいどせ、そりゃま、どげだい、しゃのねえことでござんすだけん、そっでけ、一本取られたちゅう話でござんすわな。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】  豊かな海士方言を駆使しての濱谷さんの語りである。郷土部員の他に、このときの聞き手としては、東京に事務局を持つ民話と文学の会から、萩坂 昇、大島 廣志両氏も参加していた。懐かしい思い出である。この会は35年もの間活動していたが、近年解散して今はない。  さて、民話と文学の会では知夫村を除く島前地区で。この年の7月28日から4泊5日の日程で全国からの会員57名が参加して民話調査を行ったが、萩坂、大島両氏はその準備に来島されたおり、濱谷さんからこの話を語っていただいた。当時4名(池田百合香、大上朋美、小新恵子、濱谷深希=50音順)いた隠岐島前高校郷土部員はこの島前調査のおりに、全国からの参加者に対して主に案内の役を引き受けていた。その懸命な案内ぶりは、多くの調査員の感動を呼んでいた。  さて、関 敬吾博士の分類では昔話は動物昔話、本格昔話、笑話の三種としており、この話は笑話になる。そしてさらに「和尚と小僧」譚の中の「指合図」として知られているものである。なお、和尚と小僧の他の話では「鮎は剃刀」「飴は毒」「餅は本尊様」など、読者もおなじみであろう。 語り手/御波 濱谷包房・昭和3年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和51年(1976)5月29日 聞き手/萩坂 昇、大島廣志、池田百合香 濱谷深希 酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 02「魚屋と山姥」
04:48

隠岐 海士町の民話 02「魚屋と山姥」

<音声の書き起こし> 昔、魚屋の話。  魚屋はモツガイ(森)の方へ魚売りに行きたそうな。  暮れてしまったので、そっからま、 ーどこか灯の見えっとこがありゃ宿借りようかーと思って尋ねたところが、あるところに灯が見えっだけん、そこへ行きたら、おばあさんが綿引くっくとる。ビェンビェーン、ビェンビェーン引きよる。 「なんと、おばあさん、すまんだいど一夜の宿貸してくださらんんか」言ったら、 「ああ、わしが独りおるもんだけん、汚しげなとこだいど、泊まらと思やぁ休んでごさっしゃいや」ちゅうて言ったところが、そのときに魚の残りがあった。鯖をやったら、燃やすとおばあさんは頭からバリバリ、バリバリ食ったげな。 ーこりゃま、ろくなもんだねえ。ここに休ましてもらったてや、命取られるーと思って、 「まあ、おばあさん、小用に行きてくっわな」言うと、 「はいはい」言って、そっから行きたところが、その魚屋が早々もどって、さぁどけ通ったかやと思って、 ーどけだり行くとこがねえがなと思って、それから出たところが、 「魚屋さぁん、魚屋さぁん」言ってそのばあさんが呼ぶだいど、 ーこらぁま、ろくなことだねえわいー思って、そっからぐるっと回って、その元の家の戸口に行きたところが、 ー困ったもんだわー言って、天井に上って行きて休んでおると、  角の大きな囲炉裏があって、おばあさんがそこで火てェて、 「ああ、お客取っそぶったな」いって独り言言って、戸棚から餅を出えてきて、 ー焼き餅でも焼いて食わぁかなー思って、焼いて、そっからまた、そのばあさんがひっくり返し、ひっくり返しして、いい具合に焼けた。な  それから、ま、おばあさんが居眠りすっだ。そっで、なんぞここにあれせんか思ったら、竹のイカ串の棒があった。魚屋さんは腹空いて困っだけん、天井の煙の出っとこからつついて、焼き餅しゃばりあげて(引っ張り上げて)取って食って、そか、あんまり美味いもんだけん、まだ一つ食べたに。や、おばあさんが目が覚めたそうな。 ーいつだい、この焼き餅がなくなったことはねえに、どこぞ魚屋さんがおれせんかー思って、また、 「魚屋さん、魚屋さん」言って捜すそうな。そんならま、魚屋さんは、 ー上がってこならいいがなーと思っとったに、後にゃばあさんもくたびれて休んで、 「さあ、休んだわい」言って、魚屋さんは、まだ暗ぇもんだけん出られはせんし、明けの朝の暗えうちにそっから降りて、道々、帰る道を間違えて、そぉからほんとの上がったところの道へ出て、それから帰ったちゅう。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】  郷土部活動の初期に聞かせていた話である。渡部さんの話は伝承されているうちにかなり省略が進んだもののようである。しかし、元の姿を求めると、いわゆる「牛方山姥」に帰着するようである。関敬吾『日本昔話大成』を引用すれば、本格昔話の「十三 逃竄譚」の中に次のような戸籍となっている。 二四三 牛方山姥(AT一一二一)  1、馬子(牛方)が馬(牛)に塩(魚・米など)を積んで運ぶ。途中で山姥にあって塩・馬を食われる。2、馬方は(a)舟の下、(b)萱の中、(c)木に登って、舟大工・萱刈り・樵夫に助けられて逃げる。3、一軒屋に行き、娘の援助で天井に隠れる。4、山姥が帰り餅を焼くので、天井から竿でついて食う(鼠だと考え恐れる)。5、山姥は(a)風呂釜の中に、または(b)櫃の中に入って寝る。6、(a)風呂釜に水を入れて煮る。または(b)櫃の中に熱湯を注いで殺す。  ここで少し注釈を加えておくならば、最初のタイプ「二四三・大歳の夜」の後に(AT一一二一)とある「AT」の意味は、Aがフィンランドの民俗学者アアルネのことで、Tはアメリカの民俗学者トンプソンのことである。この両者の研究から昔話の話型分類ができたので、その番号を「AT○○…」と表し、関敬吾博士も自身で行った日本昔話の分類に併せて、アアルネ・トンプソンの分類を対照させて示しているのである。次回からもときどき、ATの表記が出てくることがあるので、同様にしてご理解いただきたい。  さて、渡部さんの話は、この話型から見れば前半部分と後半部分がなくなり、主人公が山姥の家に入り込むところあたりが変形されて、家にいるおばあさんが山姥だったということになっている。そして後半の山姥を退治るところが消えて、主人公が元の道に出て無事にわが家に帰ることで話は終わる。また、本町での主人公は牛方ではなく魚屋ということになっているが、本来は牛方とか馬方であり、彼らが運搬する荷物に魚があったものが、ここではそのまま魚屋となったと思われる。このように伝承の中で多くの変形や省略が生まれるが、渡部さんの話もそのように変化した話と考えていただきたい。  なお、渡部さんは中里出身。昔話は鍛冶屋のおじいさんからよく聞かれたという。また、子ども同士集まって話をしあったときに聞いて覚えられたとのことだった。 語り手/菱浦 渡部松市・明治28年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和50年(1975)6月7日 聞き手/福原隆正・池田百合香・大上朋美・小新恵子 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 03「鶴の恩返し」
07:29

隠岐 海士町の民話 03「鶴の恩返し」

<音声の書き起こし>  昔、その昔ねえ、狩人が狩に出たという。そして向こうの小枝に鶴が一羽止まっていたので、それを撃ち取ろうと狙ったところ、それを見つけた貧乏な人が、 「鶴はかわいやナンマンダブツ」とうたったので、それを聞いた鶴はびっくりして、飛んで逃げてしまった。  それから四、五日たった後に、その人のところにきれいな娘さんが来て、 「自分を必ず嫁にしてくれ」と言うけれども、その人は、 「自分は貧乏ではあるし、嫁をもらっても生活できないから、絶対にだめだ」と答えた。  しかし、娘さんは、 「食べることは自分ですっから、嫁にしてくれればいい」と言う。  とうとう断わりきれずに嫁にしてやった。  すると、嫁さんは、婿さんに向かって、 「今日は枠(わく)を借りに行ってこい」。 「今日は車(木綿車のこと)を借りに行ってこい」と婿さんを使いに出し、借りてきたら、 「部屋に入らぬように」と言って、 それで嫁さんが朝から晩まで糸を引き、それで機(はた)を織ったわけだ。  機ができあがったところ、 「これを町へ売りに行け」と言ったから、婿さんは売りに行った。  ところが、どうした技術かは知らないが、とんでもないよい値で売れて、帰ると嫁さんも喜ぶわ、自分も喜んでおったって。  そのとき、嫁さんが奥の一間へ入って、いっぺんに姿が変わって、羽のない元の鶴になってしまって、 「自分は、こないだ危ない命をおまえのおかげで助けてもらった。その恩返しに自分の羽で機を織って金に換えさせたわけだから、この金は必ずためになるように使ってほしい。今度、何かいらぬものがあれば買え」と言い残して去って行った。  で、婿さんは、 「いらぬものがあれば、値ように買うから売ってくれ」と言って、漁師町の方へ歩いて行ったところ、漁師が、 「あ、おもしろい男が出てきた。それなら海岸近くの藻葉(もば)を売ろう」と藻葉を売った。  婿さんは金が半分しか残らないし、買った藻葉の始末にも困っておった。  そうしていたら、漁師の親方がやってきて、 「なんとまあ、一つ相談にきたが、乗ってくれんか」。 「何ごとかいな」。 「おまえに藻葉を売ったが、藻葉がなくなったら魚がおらんようになって困った。おまえの一生困らないほど金をやるので、契約を解除してくれ」。  婿さんも本当は金がなくなり困っていたところなのでたいへん喜んで、 「そんなにおまえらが困っているようなら、契約は、まあやめましょう」と、言うほど金をもらってやめたわけだ。  それで人に報(むく)いれば、必ずそういういいことが報われてくるから、人は助けてあげなければならないと昔から言われている。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 これは有名な「鶴女房」の海士版といえばよい話である。まず関敬吾『日本昔話大成』に出ている元の話は、本格昔話の「二、婚姻・異類女房」の中に次のように記されている。 一一五 鶴女房 1、傷つきまたは殺されようとしている鶴(山鳥・雉子・鴻・鴨)を若者が助ける。美女が訪れてきて妻になる。 2、女は機屋で機を織る。機を織っているところはのぞいてはならぬと約束する。 3、布が高価に売れる。夫は再び布を織るようにたのむ。 4、夫が機屋をのぞくと、鶴が羽毛を抜いて機を織っている。 5、女房は正体を発見されて去る。  これが普通のタイプであろう。ところが、川西さんの話は多少異なり、関氏のものと比べると、機屋で織るところを見てはならないとするタブーはなく、機を織り終えた女が機屋に入って姿を変え、「いらぬものがあったら買え」と謎めいた言葉を残して鶴の姿に戻って去る。男が正直に女の言った通りにすると、結果的にはたいそうな金になるという話で終わる。このように漁業の盛んな海士町らしい話になっているところがおもしろい。わたしも大学の講義などで、鶴女房の講義になると、必ずこの海士町の話を紹介することにしているが、学生諸君も地域性の違いに興味を持ってくれるようだ。 語り手/保々見 川西茂彦・明治27年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和48年(1973)6月17日 聞き手/酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 04「重たい鎧」
01:41

隠岐 海士町の民話 04「重たい鎧」

<以下、音声の書き起こし>  昔、中良(海士町崎地区の旧家、渡辺家のこと)にいろいろな宝物があったので、あるとき崎村と多井の若い衆たちが、 「なんと今日は、一つ、中良の宝物を見せてもらおうじゃないか」と話し合って、たちまち衆議一決、中良へみんな集まったげな。  そのとき、崎村の倉屋のじいやが鎧に目を留め、 「そのりっぱな鎧をわれにも着させてごせな(わたしにも着させてください)」と頼んで着させてもらったげな。  ところが、余りに重いために身体がこわばって、どうしても立ち上がることができん。 「旦那さん、こらまぁ、昔の者はこげな重いものを着て、ようやったもんだぁ」と言ったげな。そうしたら、中良の旦那さんはかんかんに怒って、 「おのれ、人の宝を“こげな重いもん”とは何事だ。今日は覚悟せえ」と言って、刀に手をかけたげな。それを聞いた崎村のじいさんはびっくりしてしまって、ポーンととんで出てしまった。それを見た旦那さんは、 「はははは………」と大笑いして、 「じいよ、じいよ、こけ来いな(ここへ来なさい)。のしらちゃ(おまえたちは)まだ本当の心でおらんだけん、いざちゅうときには鎧だり何だり(鎧だろうと何だろうと)重ていもんだねいだわい」と言われたげな。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 これはまぎれもなく世間話に属するもので、崎地区ではよく知られた話のようである。しかし、類話は他地区では聞いていない。  名家の宝物をかりそめにでも身につけてみたいというのは、いつの時代にでもある人々の願望であろう。この話の場合は、近所の人のよい爺がこれまた人のよいと信じている旦那に宝物の鎧を少しだけ着させてほしいと所望し、旦那の許しを得て着てみたが、あまりの重さに立つことができない。そこで「昔の者はこのような重い鎧をよく着たものだ」と感心して、何気なくそのような感想を述べてみた。  もちろん、旦那を信じてきっている爺には、何のこだわりもない。その言葉を聞いた旦那は、一計を案じて爺に刀を向ける。爺こそとんだ迷惑、まさに晴天の霹靂である。「命あっての物種」とばかりに逃げ出す。気づいてみればりっぱに走り出している。話はここでまたドンデン返し、じつはとっさに考えた旦那の狂言だったというのである。  ここ崎地区は隠岐島の中の島にあるのどかな集落であり、崎と多井の二つの集落に分かれる。また渡辺家は崎地区の名家として知られている。そして話し手の野沢さんは多井の方である。このようなのどかな地区にこそ、ユーモアあふれる世間話の生まれ出る基盤が存在しているのであろう。 語り手/多井 野沢兵十・明治37年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和51年(1976)6月19日 聞き手/大上朋美 濱谷深希 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 05「雪とぼた餅」
03:40

隠岐 海士町の民話 05「雪とぼた餅」

<音声の書き起こし>  とんとん昔があったげな。  山の中に和尚さんと小僧さんがおって、なかなかこの小僧さんは頭のええ小僧さんで。  あるときに山から下って集落の家に法事があって、そこへ和尚さんが行って勤めておる間に、小僧さんが、 ー何かええご馳走がないもんだらかー言って、和尚さんの留守の間に考え出したのが、ぼた餅をこしらえようーということった。  そのぼた餅も小僧さんが一生懸命で、 ー和尚さんがもどうまでに、け、こしらえて食ってしまおう|思って食ってしまっておったに、ちいと余ってしまった。  それがある寒い寒い冬の年だっただ。それでどこぞ隠さか思っておったら、幸いに雪が降っとったもんだけに、小僧がそのぼた餅の余ったやつを雪の下へほろんで(埋めて)和尚さんがもどうを待ちよった。ほいで、独り言のよやぁに、  雪降るに木茅の枝も見えもせず 下のぼた餅ゃどげしただやら 言った。ところが、そこへ運悪さに、けぇ、和尚さんが戻ってきて、そのことをちょっと聞いて、 「こらこら、小僧、今おまえは何を言った」。 「いや、和尚さん、わしゃ何だい言っちょうせん」。 「や、今言ったことを言ってみい」。  け、二回、三回請求されたもんだけん、小僧もしゃあない。 ーはてな、ぼた餅のことを言やぁ、和尚さんに、け、目に遭わされっだらぁー思って、そこで智恵のある小僧さんが、いろいろわずかな間に考えたことは、 「そんなら和尚さん、今言ったことを言ってみやぁな」言って、こんだ、小僧さんがうまいこと誤魔化いてしまって、   雪降るに木茅の枝も見えもせず 里の親し(衆)は どげしただやら いうことを和尚さんに詠ったそうな。 「こらこら、小僧、うまいことやった」。  鞭で叩かれるか、思ったら、け、歌を替えて詠ったもんだけん、和尚に褒められて、えっと、け、褒美もらったげな。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 この話は笑話に属するもので、関 敬吾『日本昔話大成』でその戸籍を見ると「1、愚人譚」の中の「B 愚か聟(息子)」に次のように分類されている。   三六〇 標の石(cf AT1278) 聟(小僧)が食べ物(蕎麦・餅)を土の中に隠して、しるしに石を置く。翌朝、雪が積もっている。「雪ふりてしるしの石」がと歌を詠んで舅(和尚)にきかれる。嫁(小僧)が詠みかえてほめられる。  このようになっており、川島さんのこの話も、れっきとしたわが国の昔話の一つであることが分かる。なお、関氏の分類でタイトルの後のATとあるのは、Aがフィンランドの民話学者アールネ、Tはアメリカの民話学者トンプソンのことで、彼らは欧米の民話を分類して番号をつけているが、関氏は参考までに、それに関連のあるわが国の話について( )の中に参考までにその番号を示しておられるのである。 語り手/知々井 川島芳博・大正3年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和48年(1973)9月28日 聞き手/酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 06「大歳の夜」
08:26

隠岐 海士町の民話 06「大歳の夜」

<音声の書き起こし>  昔々、あるところにたいそうなお金持ちの家があり、近くには貧しい貧しい一軒の家があり、そこにはおじいさんとおばあさんとが暮らしておりました。お金持ちの家では年の瀬が迫ったというので、お餅をついて下女や下男や年男を呼んで、とてもにぎやかに騒いでおりました。  一方、おじいさんやおばあさんの家では、餅をつくどころではなく、年越しをするのに粟(あわ)一升しかなくて、 「まあ、じいさんよ、困ったもんだなあ。われわれは粟一升あっだけん、粟の粥(かゆ)でも炊いて食べらいいだいど、神さんや仏さんに供えるもんがなあて、困ったもんだなあ」と言いますと、じいさんも、 「そげだなあ、困ったなあ」と言って、二人が思案していたけれど、一度に声をあげて、 「あったぁ」と庭を指さしました。そこには今年の正月に焚く炭が一俵だけ転がっておりました。  そこのおじいさんやおばあさんは、普段、炭を焼いたり、薪を取ったりして、村へ持って行って売って、それでどうなりこうなり生活をたてておりました。 「じいさんよなあ、あの炭を売って仏さんや神さんに供えるもんでも買わだないか」。 「いや、わしも今それ、思い出して言っただわなあ」。 「ああ、そりゃいいことだ、いいことだ。そんなら、じいさん、ご苦労だだいどのう、村へ行きて寒いだだいど、売って何でも買ってきてござっしゃいな」。 「ほんなら、行きてくっけんなあ」。  そう言って、おじいさんは寒い中を素足にワラジを履いて、その炭を売りに出ました。  片一方の長者の家にはみすぼらしい老人が門に立って、 「三日も食べんとおって、お腹が減るし、寒いし、凍え死にそうなから、何でもいいから恵んで」と言ったら、年男が出てきて、 「まあ、ちょっと待っとれよ。旦那さんに聞いてくっけん」と言い、それから旦那さんに聞いてからもどって来て、 「旦那さんがなあ、おまえのような乞食にはなあ、捨てるもんがあっても、やるもんがないけん追い出せ、言ったけん、出て行け」と、その乞食を追い出して門を閉めて入ってしまったって。  そこでどうしようもないから、その老人は、困ったもんだと思いながら、凍え死にそうになって塀にすがってうつむいておったところへ、炭売りにきた貧しいおじいさんが通りかかって、 「ちょっとちょっと、じいさんや、なぁせそげしてござる。具合いでも悪いこたぁねえかの」と言うと、 「具合いは悪くねえだいぞ、腹がすいてな、わしゃ凍えそうになって、ここの家がえらい餅ついてにぎやかにしており、いろいろとよけいあるもんだけん、わしに食わすもんはあらぁわなあ、ご飯一杯も呼ばりょうか思ってなあ、頼んでみたけど、『乞食に食わせるもんはない』言ってなあ、ここへ追い出されて戸を閉められてしまい、どうしようもなあて、ここにこうしてしゃがんでおったようなことだぁね」と答えた。 それを聞いた貧しいおじいさんは、 「ともかく何もないけど、わしのところへ行かあや」と言うと、 「ほんなら、世話になろうか」というようなことで、おじいさんはその老人を自分の家へ連れて帰ったって。 「今もどったわい。ばあさん」。 「やれ、もどらしたか。もどらしたか。寒かっただらあがや」。 「おお、寒かったけど、いいことしたわい」。 「ああ、そぎゃかの、えらいいいことさしたのう」。  そうして、老人を家へ入れたら、その老人は気の毒がって、庭の隅のムシロの上に座って、 「わしゃ、ここでいいけに、ここに置いてもらうけに」と言って一服したけれども、おじいさんやおばあさんは、 「まあ、何ちゅうこと言わっしゃる、この寒いに。年寄りは炬(こ)燵(たつ)に当たっとっても寒いに、そげなところへ座っとりゃ冷えてしまっけに、はや、ここに上がらっしゃい」と二人で手を取って、老人を座敷に上げてやって、どんどん薪を焚いて当たらしてあげたって。 「じいさん、何ぞ買ってござったか」。 「おお、炭売って米一升買ってきたけに、はや、これを炊いてこの人に食べらしてやれよ」。 「おお、じいさん、そりゃいいことをした。いいことをした」。 「明日の正月はどげでも、今夜が正月だ。さあ、お客さんがござった。いい正月だからお粥を炊いて、お客さんにたくさん食べさしてあげようや」というようなことで、お粥を炊いて、 「さあ、食わっしゃい。さあ、食わっしゃい。腹いっぱいになっても食わっしゃいや。容(よう)赦(しや)(遠慮)すんなっじゃ」。こう言って、二人がその老人をとてもだいじにして、お腹いっぱい食べさせて、寝るときには一枚だけの煎餅布団をその老人にかけてあげて、自分たちは庭の隅にあったムシロを取ってきて、二人仲間に着て寝た。  それから、朝、目が覚めてみたら、老人は藻抜けのカラで姿が見えない。 「おかしなことだなあ、じいさんよ。あのおじいさんはおらんわい」。 「どげ言うことだ。この寒いにどこだい行くところもねえに、出て行かしただらぁか。容赦な(遠慮する)人だなあ」と言いながら、  二人がふいと庭に降りて、あたりを眺めたら俵が三重ね積んであり、その上にお供えの餅が四重ね積んであり、そしてそばに小判十枚入った袋が乗せてあった。 「こりゃありがたいことだ。あのおじいさんは乞食じゃない。あれは金(かね)の神さんだわあ。われわれの心見にござっただらあか」というやなことで、そいで喜んで近所の人を呼んで、 「夕べは金の神さんがうちに泊まらして、お粥食べさしただけだに、こげぇなようけ、何百倍にしてもどしてくれたけに、われわれだけ食べては罰が当たるけに、さあ、みんな来て食べてください。他の人も少しずつでも持って帰ってください」言って分けてあげて、そして祝ったそうです。  そしたら、もう片っぽの分限者の方は、正月の五か日が過ぎたら、売り家の札がかかって門が閉まっちょったそうです。  そいで部落の人がみんなが、一斉に声を合わせて、 「普段から欲な人で捨てるものがあっても、人にやんのは嫌な人だったから罰が当たっただなぁ。あんたたちはな、なんぼ貧乏しちょっても、人を労(いたわ)ってあげただけん、金の神さんがちゃあんとあんたたちの心を見込んで、そして助けてくれたんだなあ」。  みんなが喜んだり喜ばれたりして、ほいで、そこはだんだんだんだん困ったりしちゃあお米が入ったりして、安楽に長生きされたそうです。そんなお話でした。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】 「大歳の客」と呼ばれる話である。歳神が乞食に姿を変えて人々の社会を訪ね、よい人かどうかを試し、貧乏ではあっても心のやさしかった老人夫婦に幸せを授けるという図式になっている。  まず、関敬吾博士の『日本昔話大成』から、この話の大筋を紹介しておこう。  一九九A 大歳の客(AT七五〇A) 1、貧乏人な夫婦が大年の夜乞食を泊めて親切にする。乞食は(a)翌朝黄金になっている。(b)井戸に落ちたので引き上げると金。2、隣の金持ち夫婦が翌年の大年に乞食を捜してきて無理に泊める。(a)乞食は汚いものになる。 2、井戸に落ちたのを引き上げてみると牛の糞。(c)蛇になって二人をのむ。(d)乞食は蛆になる。(e)死んでいる。(f)金にならないので殺す。  この全国的なタイプから、保々見の話を当てはめてみるならば、もともとは長者も隣人タイプとなって、翌年の大歳(大年)に失敗する話だったのだろうが、伝承の過程で改変されて没落してしまっているのであろう。  語り手の徳山さんは海士町保々見地区で一人で生活しておられたが、いつも明るく私たちに協力的だった。そして昔話の語り方は実にキメ細かく、温かい雰囲気の中で楽しく聞かせていただいたものであった。ご家族には恵まれなかったのか、孤独な暮らしであり、かなり大きい男女一対の幼児の人形が、常に篭の中に置かれていたことを思い出す。最初見たときは、この人形はまるで生きているような感じだったので、ちょっと異様に思ったものである。寂しい一人暮らしのつれづれの慰めに、それは飾られていたのであろう。今も懐かしく当時の様子が思い出されるのである。 語り手/保々見 徳山千代子・明治37年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和52年(1977)4月23日 聞き手/上谷千代美 宇野多恵子 上田和代 吉本千恵子 酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 07「平林」
01:58

隠岐 海士町の民話 07「平林」

<音声の書き起こし>  昔、侍屋敷に大将と小使がおったそうです。  あるとき、その大将が手紙を書いて、宛書きに「平林」として、小使に、 「これを持って、平(ひら)林(ばやし)へ行ってこい」と使いに出されました。小使はまだ字を知りませんでした。  ところが、小使は途中で「平林」という字の読み方を忘れてしまったので、出会った人に見せますと、 「これはヘイリンと書いてある」 「さあ、大将が言われたのは、ヘイリンだなかったようだがなあ」と思いながら歩いて行き、また先で人に聞いたところが、 「これはイチハチジュウノボクボク(一八十の木木)って書いてある」。  それから、それも違うような気がして、また先で聞いたら、 「これはなあ、イハイとイハイとイと書いてある」。  やはり、大将が言われたのと違うような気がして、そのまま持って帰ったら、大将は、 「おまえは字を知らんから、つまらないなあ。これはヒラバヤシだ」と言われました。小使は、 「あっ、そうですか」と答えました。大将も、 「学問を教えなければならん」と思われ、小使もまた学問をしたということがありました。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】  笑話に属するものである。まず関 敬吾『日本昔話大成』でその戸籍を見てみよう。ると「1、愚人譚」の中の「D 愚かな男)」に次のように分類されている。   四二三 平 林 愚か者が「平林」という家に使いする。読み方がわからず、「へいりんか、一八十も木木か」といってたずねる。  同じ漢字でも、角度を変えて読めばいろいろな読み方が出来る。そのようなおもしろさを狙った昔話である。海士町の話では、読み方を知らなかった小使いも、大将の情けで学問をしたと語られているが、他の地方では、単にいろいとな読み方があるという点だけが強調されているようである。 語り手/北分 石原サイ・明治27年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和52年(1977)5月6日 聞き手/上谷千代美 宇野多恵子 吉本千恵子 酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
隠岐 海士町の民話 08「日と月と雷の旅立ち」
05:02

隠岐 海士町の民話 08「日と月と雷の旅立ち」

<音声の書き起こし>  とんと昔があったげな。  昔、ある宿屋にお客さんが三人おったげな。そのお客さんはどげなお客さんかというと、お日さんとお月さんと雷さんが泊まったげな。  そしたとこめが、お月さんが晩になって、 「早(は)や出らないけん、いけん。はや、夕飯小早く食わせよ」てて言って、そっか姐(あね)さんたちに夕飯食わしてもらったげな。そのおりにお月が、チップを三円もやったげな。 「まあ、ありがとうござんす、また、ございや」言って、そいから下女らちゃみな見送って出たげにござんす。  そしたところが、お日さんが暗い夜から、疾(と)うから起きて、……暗いうちから眠たあて困んに、 「こら姐らち、起きて朝飯食わせてごせな、ごせな、遅うなっわい」  そう言ったら、下女らちが目をこすりこすり起きて、そっから朝飯食わしたげな。 「お月さんが三円もげえた(くれた)だけに、このお日さんは暗い夜から起こすだけん、どのようにいっと(たくさん)チップをごすだらあか」言って楽しみにして、目をこすりこすり起きて朝飯食わしたげな。  そしたら、お日さんは、けえ、たった一〇銭だけ、げえたげな。 「こな、お日さん、まあ、どげいうことかね。夕べお月さんは三円もげえたに、おまえは暗い夜からわたしらちを起けて、朝飯食わせ、食わせ、言って、たった一銭やかたや、どげいうことかね」てて言ったげな。  そげしたところが、お日さんが言うことには、 「月が三円なら、日が一銭に決まっちょっだわい」  そげなら、女もどげだい言いようがないけん、そっでしかたがねえだけん、「またございや」とだい言わずに、ただ見送ったげな。  そげしたとこめが、晩になって掃除せにゃならんに、雷さんのやつが、ゴロゴロ、ゴロゴロ言って、大きないびきかいて寝ておるげな。 「邪魔になってこたえたのう(困ったなあ)。こな、雷さんはどげいうことかの、だいぶ日が暮れたっじゃ、はや起きさっしゃい」言ったら、 「月や日は、どげした」 「まあ、疾う発(た)ったわね」言ったら、 「まあ、なんと、月日のたつのは早いもんだなあ、そんな、わしも夕だちにすっだわい」  言ってね、そいから雷さんは、ゴロゴロ、ゴロゴロ言わして駆け出したちゅうわの。  そっか、雷さんが逃げた(去った)だけに、そっから下女が掃除しようかと思って床の前見たところが、雷さんが忘れ物しちょったげな。何忘れちょったかちゅうと、重箱二つ重ねて風呂数に包んであったげなふうだ。そっか今度、 「なんと雷さんは、まあ、忘れ物したわい。ほっでも(それでも)また来うけに。だだいど(だけど)雷さん、何持っちょっだら」言って、そっから、下女がそっと風呂敷、けえ、開けて見たげなふうだ。そしたとこめが、なんと重箱に、けえ、子どものへそがいっぱいつまっちょったげな。  ー雷さんがへそ盗ってや(盗るということは)このことだわいー  今度、下女が、  「それはいいだいど、下のこの重箱、何だらあか」言って、開けて見かけとったら、雷さんがゴロゴロやって来て、 「下女らち、床の前に重箱忘れたわい。はや取ってごせな、はや取ってごせな」言ったちゅうわの。そっから下女らちが、 「あの、雷さん。上の重箱はへそに決まっちょうだだいど、その下の重箱は何かの。ちょっと見せさっしゃいな」言ったてて。  そしたら雷さんは、 「こな馬鹿よ、へそから下、人(ふと)に見せっちゅうもんがあっだか」 という話。 【解説:元隠岐島前高校郷土部顧問/酒井董美】  笑話に属していることは、筋書きから明らかであるが、関 敬吾博士の『日本昔話大成』には出ていない話型である。しかし、実際は全国的な規模で語られている模様で、東京の研究者もよく知っていた話である。 語り手/御波 前田トメ・大正3年生まれ イラスト/福本 隆男 海士町・崎出身 収録/昭和52年(1977)4月30日 聞き手/上谷千代美 宇野多恵子 上田和代 吉本千恵子 酒井董美 動画制作/隠岐アイランズ・メディア
bottom of page